「とりあえずやってみよう」という気持ちは「好き」より大切かも

砂遊び

なにかをはじめるとき、それが好きである必要があるのかなと、ふと、おもった。

子どもは、なにかが好きだからそれをするんじゃなくて、そのときにやってみたいことを、なにも考えずに、ただやっているようにみえる。砂場で穴を掘りたければ穴を掘るし、あそんでいてたのしくなると意味もなく「キー」とか「キャー」とかさけぶ。とりあえずやってみて、たのしければまたやるし、たのしくなければもうやらない、というかんじで。でも、おとなになると、なぜか、好きな理由がなければそれをはじめちゃいけないような気になるのはどうしてだろう。

なにかをはじめようとすると、きまって、なぜそれが好きなのって、だれかに聞かれてるみたいな気持ちになる。まるで、「あなたがそれを好きな理由を1000字でこたえなさい」という課題をだされているみたいな。おとなは子どもに夢を聞く。〇〇ちゃんは将来、なにになりたいのって。すると子どもは、夢はもっていなきゃいけないものなのかなとおもって、しかたなくテキトーにこたえる。ほんとうは夢なんかなにもないのかもしれないのに。

おとなは、子どもがあそんでいるのをみて、好きなことをやっているとおもうかもしれないけど、ほんとうはそうじゃなくて、ただただ、たのしいからそうしているだけなんだとおもう。けど、おとなは、子どもがやっていることは好きなことなんだとおもうフシがある。そのうち子どものほうも、好きじゃなきゃなにかをはじめちゃいけないのかな、とかおもいはじめる。ぼくらは子どものころから、なにかひとつのことを好きになるように強いられて、夢を押しつけられてきたようなところがあるんじゃないかなとおもう。なにかをはじめるときに、それが好きかどうかなんて、ほんとうはぜんぜんたいせつじゃなくて、ただ、とりあえずやってみればいいだけなのかもしれないのに。

子どもは、とりあえずやってみることの天才だ。放っておけば、思いつきのまま手当たりしだい、なんでもはじめて、かってにたのしんじゃう。あそんでいうるちに、じぶんがだんだんたのしくなると、いっしょにやろうっておとなにいう。「たのしい」という気分をだれかと共有すると、じぶんが感じている「たのしい」がふえることを本能的に知っている。子どもは、とりあえずやってみることの天才で、あそびの天才でもある。

おとなになると、なにかをはじめるときにいろいろむずかしく考えちゃうけど、もっと素直に、そのときの気分にまかせて、好きかどうかなんて考えずに、とりあえずやってみればいいだけなんじゃないかなあ、というおはなしでした。