薪割りのたのしみ

chopping wood

冬になると、薪ストーブで燃やすための木を調達し、薪割りをします。薪にする木は、木の水分がすくなくなる冬場に伐り、割ることで乾燥しやすくなります。だから薪割りは冬の仕事なのです。

斧であつかいやすい大きさに割った薪は、1、2年ほど乾かすことで、ようやく薪として使えるようになります。

いまでは暖房器具のない家庭はないでしょうから、どうしてわざわざそんなめんどうで時間がかかることを、とお思いでしょう。

薪割りは薪ストーブで暖をとるために欠かせない燃料ではあるのですが、暖をとるためだけだったら、薪を購入することもできます。

でも、わざわざ薪割りのような「めんどうくさいこと」をするのは、ただ単に、たのしいからです。

薪割りはけっこうな重労働にもかかわらず、いったんはじめると、ついつい夢中になってしまい、いつのまにか日が暮れていることも。

薪割りをずっとしていると、斧をにぎる手のひらにまめができることもありますが、あともうひとつ、とつづけているうちに、まめがつぶれて、また固くなっています。

薪割りは、禅の修行としてもおこなわれてきました。薪割りをするときは薪を割ることだけを考えなさい、とむかしのお坊さんは教えられたそうです。

修行中のお防さんにとっては、薪割りや水くみといった日常の仕事は、「いま、ここ」に心を集中させるための、いわばトレーニングだったんですね。

薪割りをやってみると、薪割りが禅の修行としておこなわれてきた理由がよくわかるような気がします。だって、気がつくと無心になって薪を割っているのですから。

「いま、ここ」に集中するという意味では、禅もマインドフルネスもおなじです。ジョギングがマインドフルネスにつながるなら、薪割りもおなじようにマインドフルネスにむすびついているはずです。

薪割りをすると、子どものころに1日中とおくの川や沼地で魚釣りをして帰ってきたときの、あの心地よい疲労感を身体が思い出して、なつかしんでいるのがわかります。

薪割りをした日の夜は気持ちよく眠ることができます。まさに<sleep like a log(丸太のように眠る)>です。

薪割りは腕や足腰だけでなく、全身の鍛錬になります。薪割りをずっとつづけていると全身の筋肉が悲鳴をあげます。これをやっていれば、わざわざジムにいって筋トレをする必要もないのではと思うくらいです。

ところで、薪割りのような、たのしむことを兼ねた暮らしのなかの仕事を、むかしは<遊び仕事>といったようですね。

便利さとはほど遠かった時代には、薪割りのような遊び仕事は、たくさんあったのではないでしょうか。

川で魚をとったり、山にはいってきのこをとってきたり、ときには命がけで獣と格闘したり・・・。

わたしが薪割りに夢中になるのは、そういうむかしの人たちのDNAが、からだのなかのどこかにしっかりと刻まれていて、本能を取り戻したいと、細胞が必死にさけんでいるからなのかもしれない、と思うことがあります。

そういう欲求は、わたしだけでなく、たぶん、現代に生きる多くの人が、内に秘めている欲求なのではないでしょうか。