春を迎える

冬に咲くたんぽぽ

迎春は新年を迎えるという意味だが、「春」という字が含まれているのが面白い。

語源を調べてみると、昔の暦、つまり陰暦でいう「正月」は現在でいえば二月ごろで、昔はそのころがちょうど春とされていていたことに由来するらしい。

世間では年賀状を書く習慣もだいぶ廃れてきたみたいだし、わたしも気がついたら年賀状というものとはすっかり縁遠くなってしまった。

だが、迎春という言葉はなんとなく気にいっている。春という字には、明るい希望が感じとれるからだろうと思う。

クリスマスがおわって新年を迎えるころは、いよいよ寒さがきびしくなるころだから、じっさいのところは「春まだ遠し」である。

にもかかわらず、迎春と書くと、春がすぐそこまで来ているような気がするのはなぜだろう。

春の気配を人間よりも敏感に感じっているのは植物たちだ。

春まだ遠い一月ごろでも、気の早い菜の花やたんぽぽが黄色い顔をのぞかせているのをみつけることがある。

モクレンや桜などの木々の芽は、寒さにじっとたえるように、いっそうふくらみをみせ、赤く色づいたりしながら、着々と春を迎える準備をしている。

そういう植物たちの姿をみていると、なんだかうれしい気持ちになって、彼らにたいする敬意のような気持ちまでわいてくる。そして自分もそうありたいと、心の底からおもう。

自然界に四季があるように、人生にも四季はおとずれる。春を謳歌して、実を結び、枯れ葉が散って冬を迎える。

人生のなかで冬はなんどもおとずれる。一難去ってまた一難、そのくりかえしである。

冬を迎えるたびに、人生とはかくも辛いものか、と思う。しかし、植物たちに負けてはいられない。人間だって自然の一部にちがいないのだから。

わたしたちの祖先だって、おそろしいような寒さとたたかいながら、懸命に生きのびてきたのだ。

寒風吹きすさぶ大地を踏みしめながら、泣き言はいわない、言ってたまるものかと、自分を奮い立たせることが大事だ。

とはいうものの、じつのことをいえば、わたしだって泣き言ばかりいっている。愚痴もこぼすし、うしろばかり振り返って、歩くのをもうやめてしまいたいと思うことも多々ある。

しかし、こちらが降参するのはあまりにも簡単で、それでは運命の思うつぼだ。

身体が弱くても、気持ちで勝つということは事を有利にはこぶ第一歩だと思っている。

子どもどうしのけんかでも、力が強いほうがぜったいに勝つとはかぎらない。けんかが弱くてもぜったいに降参しない子どももいるからだ。負ける運命だと知りながらたたかう子だっている。

人生は他人との勝ち負けではないにしろ、自分との戦いは避けられない。ならばいっそう強い決意をもって人生に臨むほうがいい。そして戦いのさきには、かならず春がまっていると信じたい。

毎年こんなことを考えながら正月をすごしているのは、わたしだけだろうか。