ことわざ「一病息災」にまなぶ

梅の花

冬になると眠くてしかたがない。じぶんの祖先は冬眠をする種族だったんじゃないかと思うこともある。

研究者のなかには、わたしたちの祖先の一部が冬眠をしていたかもしれない、というひともいる。

遠いむかしの人々が冬眠をしていたかどうかはわからないにしても、かれらは冬のあいだ、わたしたち現代人よりも身体を休めていたにちがいない。

現代でも、農業などに携わっているひとのなかには、冬はあまり働かないでいいひとたちもいる。

しかし残念ながら、現代の仕事のほとんどは、冬だからちょっとお休みしますなんてことはいっていられない。

知的生産には終わりがなんていわれるけど、わたしのように仕事のほとんどを家でおこなっているような場合でも、仕事をみつけようとおもえばいくらでもみつけることができるので、まったくきりがない。

フリーの場合は、オンとオフの切り替えがあまりない分、かえって会社勤めよりも気ぜわしいかもしれない。

いずれにしても、現代人は意識して休むことをしなければ、いつまでも働きつづけなければならない運命らしい。

冬はなにをするにも、どこにいくにしてもおっくうになる季節なので、身体を休めるのには適した季節といえるだろう。

ところで、身体を休めることは無理をしないことともいえるが、冬にかぎらず、ふだんからあまり無理をしないひともいる。

わたしなどもどちらかというと、そういう部類にはいるのではないかと思う。わたしが極端な無理をしない理由は、元来なまけるタチであるということもあるけれど、もっと切実な理由もある。

無理をすると命にかかわるかもしれないという恐怖が常につきまとっているのである。わたしが無駄に気合をいれたりしないのは、できるだけエネルギーを浪費せずに身体にたくわえておきたいのである。

わたし自身、日ごろから身体に適度な負荷をあたえているようなところもなくもないから、人並み以上に体力はあると思うのだけど、生まれもった身体はそんなに丈夫とは思えない。

対照的に、体力はあまりないけれど、生まれながらにつよい身体をもっているひともいる。

どちらがいいのかはわからない。ただ、ひとつたしかにいえることは、じぶんの身体のよわさを自覚しているひとのほうが、無理をしないということである。

このことを言い表しているのが、一病息災(いちびょうそくさい)ということわざである。

このことわざは、健康なひとよりも、ひとつくらい病気をもっているひとのほうが、かえって身体を大切にするから長生きしやすい、という意味でつかわれる。

健康かどうかは、力がつよいとか身体がつよいとかは、あまり関係ないような気がする。

スポーツ選手や格闘家のなかには短命のひともいるからだ。とすると、「健康」とは、「つよさ」とはいったい何なのか、ますますわからなくなる。

ときには、「健康のことなんて考えない」なんて強がりもいってみたい。でも、じぶんがもし病気になったら、だれかに迷惑をかけないわけにはいかないし、ひとりやふたり、こまるひともいると思う。

ざまあみろ、とほくそ笑むものも、いないともかぎらない。

そうなると、やはり病気になるわけにはいかない。いや、意地でも健康でいなければならない。たとえそのことがかっこうわるくても。

一病息災の「病」は病気のことだが、「冷えは万病のもと」というから、冬の寒さも、人体にはあまりよいものではないらしい。

しかし植物の球根は、寒さにさらされないと美しい花を咲かせないという。ならば、ひとも美しく花開くためには人生の冬を経験しなければいけない、ということになるのか。まあ、どっちでもいい。

とりあえずは、降りそそぐ日差しをエネルギーに変え、地中にはった根から養分を吸いあげながら黙々と春をむかえる準備をする植物たちを見習い、日々こつこつと準備をしながら春をむかえることにしよう。

適度に無理をすることは、心身にもいい刺激になり、仕事の効率をあげてくれたりもするけれど、がんばったら、がんばった分だけ、じぶんのからだの具合の悪いところを思い出し、いたわってやることも忘れないようにしたいものである。