波佐見焼の黄色いマグカップ

先日、うっかり手をすべらせて、ながいあいだ使っていたマグカップを落として割ってしまった。そのマグカップは地味な色のカップだった。いつもなら、そんなとき、またおなじようなカップを時間をかけてさがして、吟味して買うのだけれど、どういうわけかそのときは、すぐにあたまの中に黄色いマグカップが浮かんできたのだった。カップを割った翌日、近所の公園で開催されていた陶器市に、散歩の途中に立ち寄ってみると、前日に思い浮かべたカップと瓜二つのものを見つけた。それらはわたしがイメージしたほぼそのままの黄色いカップだった。目の前に波佐見焼の黄色いマグカップがふたつ。すこし考えてから、取っ手と底の部分のデザインがめずらしいほうのマグカップを、ほかの食器といっしょに購入した。黄色は、ふだんならえらばない色。でも、なぜか、あたらしいマグカップは黄色がいいと思った。黄色は希望の色だから? 希望って、なんでもないときに口にするとなんだか気はずかしいけど、弱気になって元気が出ないときにはいっしょうけんめいになってさがしているもの。春に生命力いっぱいに咲く菜の花も、真夏の太陽も、太陽に向かって伸びる向日葵も、みんな黄色。身のまわりにおいておく雑貨や小物のなかに、ひとつだけ黄色のものを取りいれてみる。そうすると、なんかイイコトありそう… 。そんなふうに、あたまがかってに考えたのかもしれない。色がこころにあたえる影響は大きいといわれるけど、けっきょくのところ、じぶんがのぞむ色にこころの色は染められていくものなんじゃないかなって、このごろは思うようになった。ところで、わたしが陶器市で買った黄色のマグカップは、フチのところの釉薬がはげている。こういうの、釉禿げ(ゆうはげ)といって、むかしの茶人が好んだらしい。いまでは一般の市場に出回らない代物がこうして陶器市などで売られるているようだ。世の中のメインストリームからはじかれたものが、まわりまわってじぶんのところにやってくる。これも縁というもの。陶器との出会いも一期一会と知るべし。