大義名分が洗脳の手段になる

八月がちかづいて、過去に放送された戦争ドラマがふたたび注目されているようです。わたしも、きのうの夜、「15歳の志願兵」というドラマをビデオで観ました。このドラマは、夢をもつ純粋な15歳の少年たちが、大義名分を説く大人たちに洗脳され、予科練に志願するという、実話にもとづいたストーリーです。当時、戦死率が90%にも達した予科練に志願するということは、すなわち死を覚悟するということとおなじでした。

ドラマでは、生徒たちを志願させようと説得する教員たちのすがたとは対照的に、本心では生徒たちを戦争に行かせたくない教員と親たちのこころの葛藤も描かれています。ドラマのシーンでとくに印象的だったのは、教員たちの説得によって、子どもたちが徐々にかわっていくようすです。最初は戦争に懐疑的だった文学少年も、いつしか周囲の”空気”に触発され、ついにはみずから予科練に志願することを決意します。

大義名分が、それをかかげる人々の都合のいいように利用されるのは、昔も今もおなじではないでしょうか。たとえばブラック企業…たとえばブラック部活…。ほんとうはトップにいるものが儲けたいだけ、あるいは世間的に評価されたいだけなのに、大義名分のもとに他者を命令に従わせるのです。ドラマのなかで、志願の決意を大声で述べる生徒たちのすがたがありましたが、ブラック企業やブラック部活でも、目標や反省を大声で叫ばせることは日常的におこなわれています。根性、やる気、努力といった精神論をかたることは、大義名分を振りかざすのとおなじで、それをかたる人々の「都合のいい解釈」が精神論にとってかわっているだけです。

「大義名分とは」と検索すると、ウィキペディアの解説が検索結果の最初のほうにでてきます。ウィキペディアによれば、大義名分は儒教に由来する考え方で、「今日では転じて、『行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠』を指す事が多い」と解説されています。儒教における主従関係や師弟関係は絶対的なものです。大義名分というものは、そうした絶対的な関係を前提としたものであるということを、わたしたちは心に留めておく必要があります。